津城

別名 安濃津城  付近住所 三重県津市丸之内 現在 お城公園
2010/1/11 碑・案内板・藤堂高虎像アリ 日本城郭大系


細野藤敦
津田一安
織田信包

富田一白
富田信高
宇和島藩へ

今治藩より
藤堂家
高虎→
高次→
高久→
高睦→
高敏→
高治→
高朗→
高悠→
高嶷→
高兌→
高猷→
高潔 
 津城は、織田信長の弟信包によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきたとき、長野氏の養子に入ったものである。天正8年(1580)には五層の天守閣が完成し、当時柳山付近が中心であった津の町から町家や寺院が移され城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城・城下町とも戦火を受けた。
 慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、城に大改修を加え城下町を整備した。本丸を広げ、石垣を高くして北側の石垣に角櫓を築き、堀も整備したが、天守閣は再建されなかった。津城は典型的な平城で、堀が「回」の字形に二重に巡っている輪郭式または囲郭式といわれる形の城である。
城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町屋が置かれた。町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、町の発展を図った。また、堀川を掘り、東側の守りとしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。さらに堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合に備えた。

藤堂高虎公
 弘治2(1556)念、近江国犬上郡藤堂村(のち在士村、現滋賀県甲良町)に生まれた。15才の時、浅井氏に仕え、姉川合戦で初陣を飾って以来各地を転戦し、天正4(1576)年21才で長浜城主木下秀長(豊臣秀長)に三百石で召し抱えられ、天正13(1585)年には紀州粉川(和歌山県粉河町)ではじめて一万石の大名となった。
 その後豊臣秀吉の下で伊予宇和島(愛媛県宇和島市)七万石となり、二度の朝鮮出兵にも参加した。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、関ヶ原の戦いの時には家康に味方して勝利をおさめ、伊予今治(愛媛県今治市)二十万石の大名となった。
 そして、慶長13(1608)年いまだ大きな勢力を誇る豊臣家を包囲する重要な地の伊勢・伊賀に二十二万四千石で移され、大阪の役の後に加増され三十二万三千余石の大大名となった。また高虎は、築城の第一人者としても名高く自身の居城として築城した板島城(宇和島城)・今治城や津城・伊賀上野城の修築、城下町形成はもちろんのこと、幕府の命で修築を行った聚楽第膳所城伏見城・江戸城・篠山城丹波亀山城大阪城二条城と数多く手がけている。このように高虎の生涯は、戦乱に明け暮れ、また各地を奔走し席の暖まる暇もないものであったが、武将らしさとともに領民への気配りや人の和を大切にした人物であったと伝えられている。

    


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